MBS高井美紀アナ 経験と教訓を胸に「感じてきたことを伝えたい」 阪神・淡路大震災から25年

MBS高井美紀アナ 経験と教訓を胸に「感じてきたことを伝えたい」 阪神・淡路大震災から25年

 大災害や事故に遭遇した人たちが「自分が生き残ってよかったのか?」と自問自答し、罪悪感を感じることがある。これを「サバイバーズ・ギルト」という。自らも被災者の1人である毎日放送・高井美紀アナウンサー(52)も、自分が助かったことに悩み、震災直後のラジオ特番では目に涙を浮かべながら、マイクを握った。

 地震発生があと5分遅かったら、どうなっていたのか。結婚して2年目。購入後1年少しの神戸市東灘区の2階建て自宅で被災した。地震の瞬間は夫と2階で就寝中だった。医師である夫が朝6時半に出勤。そのため高井アナは午前5時50分に目覚まし時計の力を借りて起床。夫を送り出すのが常だった。午前5時46分の発生時は熟睡中。大きな揺れで目が覚め、3度ほど縦に揺さぶられた。揺れが収まって真っ暗な中、2階ベランダ部分から外を見ると、地面が目の前にあった。

 「1階部分が潰れました。あと5分、地震発生が遅かったら、私は1階で家事をしていた。ウチの下敷きになってたと思います」

 枕元の携帯ラジオを手に、ベランダのスリッパを履いて外に出ると、自宅の並び5軒が全壊。道路1本隔てた家はほとんど壊れてなかった。近くにある実家の両親の生存確認に出かけた。生まれ育った地元の街はメチャメチャに壊れていた。その後は夫の実家がある尼崎市に避難。そこからラジオで現場の様子を伝えた。夫は勤務していた姫路市内の病院へ行かず、芦屋市民病院の救急ヘルプで働いた。「武庫川を境にして、街の様子が全然違った。大阪の街は普通に生活できているというのに、少し離れた神戸の街は…」。仕事復帰し、情報番組やバラエティー番組に出るのが「きつかった。つらかった」という。

 アナウンサーとしての存在意義を教えてくれたのは被災者の1人だった。取材先の西宮市内で「余震情報など、ラジオの高井さんの落ち着いた声に助けられました。ありがとう」と言われた時「何か吹っ切れた気がした」そうだ。被災した市民に何が必要か。どんな情報がほしいか。身をもって自身も被災したからこそ、伝えられる側の気持ちが分かるようになった。

 祖母の声も心強かった。大阪・船場の薬問屋で育った祖母は大阪大空襲で被災した。その祖母から「あなたは若い。お金で買えるものは頑張ったら何とかなる。頑張りなはれ」と諭された。全壊した自宅の場所に、新たにウチを建て、2つのローンを抱えることになった。“2重ローン”の1つは完済したが、まだ、もう1つのローンは残っている。

 昨年12月6日、MBS局内で若手の記者、アナウンサーを集めて勉強会を開催した。震災報道について、被災者についてなど。「身を持ってつらい経験をして、教訓も得て。どんどん増える“知らない世代”に、感じてきたことを伝えたい」。25年経って、今は前向きでいられるようになった。(古野 公喜)

 ◇高井 美紀(たかい・みき)1967年12月28日、神戸市出身の52歳。父の仕事の関係で幼少期をポルトガル、オランダで過ごした帰国子女。兵庫県立御影高から神戸女学院大を経て毎日放送に入社。報道番組だけでなく、バラエティー番組でも活躍。家族は夫と1女。